JDF-日本障害フォーラム-Japan Disability Forum

JDF は、障害のある人の権利を推進することを目的に、障害者団体を中心として2004年に設立された団体です。

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■最終更新 2016年3月17日

HOME>セミナー・学習会>JDF東日本大震災被災障害者総合支援本部 第五次報告会「震災5年目から未来への提言」|JDFみやぎ支援センター東日本大震災に関する支援活動報告

JDFみやぎ支援センター東日本大震災に関する支援活動報告

JDF宮城
事務局長 池田 裕道

 2011年3月11日に発生した東日本大震災を受け、3月18日、日本障害フォーラム(JDF)は「JDF東日本大震災被災障害者総合支援本部」を設置、3月30日に「JDFみやぎ支援センター」を仙台市内に開設した。宮城県内の障害者団体で構成された「被災障害者を支援するみやぎの会(3月23日発足)」と連携するとともに、全国のJDF関係団体等から多数の支援員の派遣を受け、震災発生直後の救援物資運搬、障害当事者の安否確認、避難所や仮設住宅における相談支援や移動支援、生活状況や被災状況についての調査活動など、さまざまな活動を行った。また、情報交換会を開催して、行政を含む関係機関との情報共有や意見交換を重ね、生活再建や復興に向けた取り組みへの対応を検討した。避難所から仮設住宅等への移行に伴い、同年12月に支援員による支援活動を終結した。その後「被災障害者を支援するみやぎの会」が発展的な解消を遂げることとなり、2012年3月9日、県内の障害者団体で構成する「JDF宮城」を新たに発足し、「みやぎの会」の活動を引き継ぎながら、JDFみやぎ支援センターの事務局を担い、被災障害者や障害者団体の支援と復興再生に特化した活動を行っている。

JDF宮城の取り組み
 JDF宮城は、2016年1月現在、県内の60団体から構成されている。事務局は3名から成り、会計担当1名と主な支援活動を2名で行っている。取り組みの内容は、県内60団体とJDF支援本部に毎週報告し、さらに詳細な報告を、年1回の全体会および年数回の支援本部会議(東京)で行い、課題共有を図っている。
 支援活動の柱は仮設訪問である。1市1町から情報提供は受けたものの、実際に被災障害者がどこにいるかまでは把握できず、各地の仮設訪問を通して「草の根的な」被災障害者支援活動を行っている。
 未曾有の大震災から5年が経過しようとしている今、被災された方の生活再建の状況はますます多様化しており、それぞれが抱える課題も異なっている。災害公営住宅への転居や自宅再建にて新たな生活を始められた方がいる一方、さまざまな事情から仮設住宅での不自由な生活を選択せざるを得ない方々がいる。我慢することが多いであろう日々の生活において、「特に困ったことはない」「ここにタダで居させてもらえるだけでもありがたい」と自分に言い聞かせながら、「なんとか生活している」という声を多く聞く。支援した障害者宅を再訪問してみると、「転居先は未定」と話される方が思った以上に多かったことが事態の深刻さを物語る。理由として多く聞かれたのは、「希望する場所に復興住宅等がない」、または「経済的な問題」とのことであった。災害公営住宅の建設工事の遅れにより完成待ちをしている方も多いが、転居後の環境への適応や新しい人間関係の構築に不安を感じているという方も大勢いる。
未訪問の仮設住宅を訪問しつつ、再訪問先では近況を伺い、物資支援、行政機関や専門機関へのつなぎおよび連絡調整、引越し等の支援など、「今」上げられている声に耳を傾けながら、出来うる限りの支援を続けている。

訪問した仮設住宅 宮城県内406か所中およそ330か所(2016年1月現在)
(気仙沼市・南三陸町・石巻市・女川町・東松島市・塩竃市・七ヶ浜町・多賀城市・仙台市・名取市・岩沼市・亘理町・山元町)
支援した物資 手すり・杖・バスマット・ベッド・マットカバー・座椅子・ブレンダー 液晶TV・インターフォン・光るチャイム・畳・おむつ・パッド・膝サポーター、ソファー、歩行車、衣装ケース 等)
その他の支援・活動
  • 災害公営住宅申込の手続き
  • 保健師や地域包括支援センターとの連絡調整
  • 清掃
  • 使用できなくなった車いすの処分
  • 引越しに係る支援等
  • 南三陸町障害者自立支援協議会の委員(外部識者)として参加
  • 他県からの物資支援先の仲介
訪問した自治体
および関係機関
気仙沼市・南三陸町・美里町・石巻市・女川町・東松島市・塩竈市・七ヶ浜町・多賀城市・仙台市・名取市・岩沼市・亘理町・山元町

震災時、どのようにして助かったのかについて障害のある方々からの声
(お話を伺った中のごく一部)

  1. 震災時は、夫婦で神社のある高台の方に逃げた。ご主人が障害あるため、スムーズに逃げられず上の方にいた数名が来てご主人を支えながらなんとか高台に逃げることができた。助けてくれた人達の名前を聞かなかったことを悔やんでいる様子。
  2. 震災時は、女川町医療センターにあるデイサービスに行く日だったため助かった。家は流されたので、最初に2週間はデイサービスのある老健で過ごす。仮設に入る前の大半の期間は親戚のいる古川で生活していた。
  3. ご夫婦でそれぞれの車で一緒に逃げたが、津波を見た瞬間体が動かなくなった。それを見たご主人が障害ある奥さんを車に乗せてなんとか助かったとのこと。そのため、車1台を失う。
  4. 震災時は事業所に通所していたため無事だった。家には戻らず、総合体育館に避難しその後小学校に移る。家は流され今の仮設で生活することになったと話す。(精神障害)
  5. 耳が不自由で話がかみ合わなかった。震災時は胸元まで水が上がってきて、竹にしがしがみついてなんとか助かったと話す。(聴覚障害)
  6. 震災時は、叔父が自転車で出かけていて探し回った。偶然に胸騒ぎがして小屋のちょっとした隙間を覗いてみたら、地震で落ちてきた本や雑誌に埋もれて身動きがとれない状態。叔父を引っ張り出して九死に一生をえた。(聴覚障害)
  7. 震災の時は、家族に連れられ高台に逃げて助かったとのこと。(視力障害1級)
  8. 震災では母親を亡くし、借りていた家が流させた。妹と一緒に必死で逃げて山の中で火を焚いて一晩を過ごしたと話す。
  9. 自治会長の奥さんは津波で流され今も見つかっていない。自治会長は日赤病院にいて、奥さんがいた自宅に行こうとしたが行けない状況になり仕方なく病院に戻って助かった。(器官拡張症)
  10. 震災時は自営でやっていた下宿にいた。必死で高いとこに逃げ、そこで知り合いの車に乗せられて逃げ切った。石巻に住んでいる娘と連絡がつくまで入谷のある方のお宅にお世話になった。その後、今の仮設が当たるまで娘と一緒に生活していたとのこと。(両足が不自由)
  11. 震災時は、外に出ないで2階に避難。1階は浸水したが2階に逃げたことで助かった。
  12. 高齢の母親を車椅子にのせて、知らない人が両脇の車椅子を抱えて高台に逃げたとのこと。親戚などの家を頼って生活していたが、ご主人が気を使うこともあり8ヶ月経ってやっと今の仮設に住むことになった。(両足が不自由)
  13. 病院にいたので大丈夫だった。(身体障害3級)

今後の展望
 震災から5年が経つ今、まだまだ支援を必要とされている方がいるということを日々の活動を通して痛感している。個人情報保護の壁により居場所の特定は難しいが、仮設住宅や災害公営住宅の自治会長や関係機関のみなさまの協力を得ながら、支援を継続していきたいという思いはある。しかし、復興支援のための寄付金は激減しており、活動を続けるための資金等の課題もある。
 また、時間の経過と共に震災の記憶が加速度的に風化していくことが懸念される。被災された方の「その時」の声に寄り添い続けながら、他方で今回の震災の教訓を伝え続けていかなければならない。今回の震災で障害者(障害者手帳所持者)の死亡率が全住民の死亡率と比べて2倍 、もしくはそれ以上だったという重い事実を受け止め、差別・偏見のない社会実現を基本としながら、平時からの行政・関係団体の協力体制の構築、地域住民とともに行う避難訓練や防災・減災教育(災害発生時に誰もが情報にアクセスでき避難できるための基盤づくり)、福祉避難所の整備及び周知等の必要性を継続して発信し、より多くの方と課題を共有し未来に備えていきたい。具体的には、被災障害者は勿論のこと、家族や地域住民を対象に勉強会やセミナーの開催等を検討し、非常時への対応と誰もが安心して暮らせる・暮らしやすい地域づくりに少しでも貢献できるよう取り組んで行きたい。

最後に
 被災地での障害者支援はまだ道半ばであることは、今までの説明で理解していただけたかと思う。現在、宮城県内で障害者に特化した支援活動をしているところは民間では限られている。行政機関では行き届かない支援を担う団体はこれからも重要であり必要である。活動費の課題をクリアし何とか活動を継続していきたいので、皆様には引き続き応援して頂けますよう心からお願いしたい。

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